建築

ラコリーナ見聞記 〜〜F点を超えてゆけ〜〜

ほら、結構評判いいじゃないですか…、ま、いちおう見ておこうかと……

ついつい出来心で、ラコリーナに寄り道

駐車場に着くと

普通なら白線になってるところが、草線になってる…こういうのは実にいい。縁石があえて一個になってるのも余分なものを置きたくないという意志を感じる。

照明のポールがわざわざ焼き杉の板で囲ってある!

なんかもうここまでくると、隅々までラコリーナの世界観で統一しようという執念みたいなものを感じる…期待させるには十分だ……が、しかし、いいのはここまでで………。

雑誌やテレビでよく見た、あの外観が近づいてくる…。。この辺りはある程度予想通り……しかし、スレたオジさんは「かわいい〜」とか言わないのだ、それでいいのだ。

この日はたまたま草屋根の雑草(?)取りをしているようでした。これは大変そう。メルヘンを維持するのはこういう地道な作業の積み重ねなのだ。

こういうとこ見てると、ふーん、て感じで、まぁ、一般の人が好みそうな造形だよなぁ、と。左の壁も知らない人が見れば土壁のようですが、

まぁカッチカチで、これはおそらくセメント系の材料に色粉を入れて土壁ぽくしたものですね。自然のものではないものを自然ぽく見せただけ。この見せかけの「〇〇っぽいもの」ていうのが、この場所では後々ずっと一つのテーマとして響いてきます。

この辺りの柱ですが、まあ自然っぽい造形ということになるんでしょうか。これ栗の木なんですが、よく見てもらえればわかるんですが、表面に木目が見えてないですね。木というのはだいたい、外側のゴツゴツした皮の内側に白っぽく柔らかい皮の部分があるんですがそれが取り除いてないからなんですね。そこを取り除くとはじめて木目の模様が出てきます。一般に栗の木は耐久性が高い、と思われてますが、この柔らかい白い皮の部分は虫も食いやすいし腐りやすく、ここが腐りはじめると中まで割と簡単に腐ってしまいます。

っていうか、既に腐りはじめてますやん……。

栗の木は確かに耐久性が高く、青森県の三内丸山遺跡でも栗の木の柱が発掘されたのは有名ですが、それはあくまで栗の木の中身の話。外側はどんな木でも簡単に腐ってしまう。「すごーい、栗の木って腐りにくいんだー」みたいな雰囲気だけで訳わかってない人が使うと、こういうことになるんです。この施設全体は「50年後の完成を目指す」とか言ってるらしいんですが、これではそもそも50年も保ちませんぜ。こういうふうな、言ってるカッコいい能書きと実際やってることの乖離・チグハグさに何だかモヤモヤしてしまう。素人は騙せても玄人は騙せませんのですぞ。

このあたりを詳しく解説しますと、例えばこれはヒノキですが

原木のままですとこういう状態で

一番外側の皮を取り除いたのがこの状態。ツルツルですが木目は見えていません。

実際のところ、

この赤い線の範囲くらいは非常に腐りやすいので、取り除いてしまわないといけません。これは大昔からわかっていたことで、例えば、これは奈良時代の井戸枠(丸太をそのままくり抜いて使っている)ですが、

(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)

木目が見えるところまで表面をチョウナでハツった様子がハッキリと見てとれます。1200年以上前の人々も、外側が腐りやすくて取り除かないといけないことを完全に理解していたわけです。これをよくわかってない人がやると、ああいう風にすぐに腐ってしまうことになるわけです。東大教授が設計してあれですから、なんともかんとも。

wise men, folly-fallen, quite taint their wit.

—-William Shakespeare  : Twelfth Night

(賢いはずの人達がバカな真似をしては、せっかくの知恵が台無しだ)

入口近く、ここも一見「ハツってあるぽい」ですが、

電気カンナで汚く荒らしてあるだけで、こんなのシロートでも出来る。手抜きだよなぁ、と自分は思っていても周りのお客さんから聞こえてくるのは「うわー、すげぇ手間かかってるじゃん」みたいな声で、ええっマジっすか?みたいな、一般の人との温度差をめちゃくちゃ感じるんですよね。そう、こういうところに来るのは建築屋さんより圧倒的に一般の方なんですから、一般の方がこれで良いって言うならこれでいいのだこれが正義なの……だろうか。。。

外部で使う柱が腐りやすい外側を付けたまま使っているのに、何故か内部で使う柱は木目が出るところまで削り込まれている。しっかしまぁ、これなんかもただただチェーンソーや電気カンナで荒らしてあるだけで、これもまた「〇〇っぽいもの」の再来。

しかし、この「〇〇っぽいもの」がなかなかのクセもので、自分達のような職業人はその胡散臭さにすぐに気付きますけど、一般の方には気付かれないどころかかえって「なんか面白〜い」という魅力となって映る。ここの設計者のフジモリ氏はこの絶妙なポイントを突いて来るのが実にウマい、ウマ過ぎてちょっとアザとささえ感じてしまう。ちょっと意識高い系の“自称”ハイセンスな層の人々の心をくすぐり捉えて離さない。この絶妙なポイントをフジモリ氏に敬意を表して「F点」としてグラフに表すと、

と、なる。ごく普通のミーハー層に媚びるんでなくて、ちょっと自意識高めのオサレ層(実はミーハー)を掴まえるのがブランディング的にもポジション的にも商売的にも一番良いようだ……。そういう意味ではここの建物群っていうのはめちゃくちゃ“丁度いい”ところに収まっている。ホンマもんの良いものを見慣れた人には全く魅力が無いが、そうでない人は文句無し「素敵っ!❤️」となってしまうという、まさに”感性の試金石“みたいなところがある。マジで、ここで「わぁ!いいなぁ」と思った人は、もっと本物の良いものに触れて触れて触れてきてから出直してきた方がいい。F点にとどまっていてはフジモリ氏の思惑通りの展開なのだ。お前達それで悔しくないのか??…………「悔しいです!!」

そもそもお店の場合、だいたい滞在時間は1時間程度ですから、作る側の姿勢としてもその1時間さえ乗り切れてしまえさえすればそれでいいわけです。ハッタリで人目を惹いて、ジっと見られてもおかしさに気付く前に帰ってくれればいいだけです。だから少々変なことになっててもバレずにやり過ごすことが比較的容易に出来てしまいます。これが例えば旅館ですと二泊とか三泊とかもっと長い時間見られるわけで、その長い時間に耐えないといけないわけです。一見すると面白かったけどよく見たら変、だとか、使ってみたら邪魔だった、使い勝手が悪かった、とか思われないように気を使うわけですよ。これが住宅になると更に10年とか20年とかのスパンになるわけで余計にシビアになってきます。だからってさ……

これではあんまりにも人の感性を小バカにしてないだろうか??感性というものは育つし、何度も来る人だっているわけですよ。意地悪な言い方になっちゃいますけど、こういうものの裏にあるメッセージっていうのは「キミ達にはどうせ本物の価値なんてわからんのだろうからこのくらいのニセモノで上等だろ」ってことですよ。お客さんをナメてるわけですよ。しかしね、こういういい加減なことやってると時代を突き抜ける質を纏うことが出来ないんですよ。「神は細部に宿る」とはよく言ったもんだと思うわけです。

要するにこれは、一時の流行り物の小説みたいなものが、古典の素養の無い人にはどれもただただ面白く映るのに似ているんです。建築において、古典は即ち200年も300年も経ったような古い建物なわけです。そういうものを沢山見てこないから、ああいうものにコロっとヤラれてしまうんですよ。。何百年も経ったような建物を何百棟も見てこれば、時代を超える美しさというものがどういうものであるか、理屈を超えて感覚に沁み込んでくる。そういう目でもってすればどれが何が時代を”突き抜ける“に十分な素質を持ったものかは2秒くらいでわかってしまうんです。ここにはそういう要素は一切無い。フジモリ氏はそんなことは百も承知の上で、敢えてミーハー層だけが落ちる巧妙なワナを仕掛けてくる。あのメルヘンチックなフワフワとした優しい外観とは裏腹に、これは「お前はこれまでどんだけいいものを見て感性を育ててきたんだ?」「お前はここで感動するような安っぽい人間なのか?」というあなたの感性を試すためのフジモリ氏からの厳し〜い挑戦状なのだ。ここで感動したら負けなのだ。そして私はこれを読んでいるあなたに言いたい「F点を超えてゆけ!」と。

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