またまた、大阪城の「櫓」特別公開に行ってきました。大阪城に関しては、豊臣秀吉による遺構は全て埋没、その後の徳川幕府によって再建されるも天守閣は1665年に落雷で焼失(現在のものは1931年 鉄骨鉄筋コンクリート造による再建)、明治維新の争乱と第二次世界大戦の空襲で多くの建物が焼失、といった具合で、見るべき古いものは、焼失を免れた櫓や門に集中しています
櫓は特別公開期間しか見学できないのですが、二つ公開される櫓のうち、多聞櫓は幕末の再建ということで比較的新しくて趣に欠け、注目すべきはやはり元和6(1620)年築の「千貫櫓」であります。
千貫櫓の床板は総てチョウナはつりの仕上げである。幕末に再建された多聞櫓の床板が平らに削ってあることと合わせて考えると、やはり江戸時代初期頃までは板の仕上げはハツリ仕上げが多かったのではないかと想像されます。台カンナは室町時代には発明されていたはずですが、平らに綺麗に仕上げるのはとにかく時間がかかるため、こうした大規模建築ではカンナ仕上げが採用されず、手っ取り早くチョウナでハツってしまったものと思われます。
前回初めて来た時には、もうとにかく驚いてしまって「おお〜これは凄いもんだ〜」という感想に終始してしまったのですが、前回少し気になった建築当初からの材料と、昭和の修理での差し替え材の違いを今回は確認しようと思っていました。どこかに、古い材と新しい材の境い目がある筈だ、と見当を付けて探すと、ありました!
少しわかりにくいですが、真ん中より上の板が新しくて、下の板が古いです。下の古い方は磨り減ってハツリ跡もだいぶ浅くなっています。古い板は連続して並んでいるので古い板ばかり眺めてみると〜、
時にはナデナデしながら
千貫櫓には14代将軍 家茂 ・15代将軍慶喜が城内巡視のためしばしば足を踏み入れたという記録が残っているそうですから、もしやこれは将軍さまが歩いた床板かも知れぬと想像しながら歩くのも、いとおかし……
と、「これだっ」と、前回気付かなかったあることに気付いてしまう。
古い床板の釘が打ってある所をよーく見ると
打ってある釘の近くに、もう一つ釘穴が開いている。おっちょこちょいの大工さんが間違えた、わけではない、たぶん。考えると当然の事なんですが、この櫓は解体修理をされているわけですから、床板も一度は釘を抜いてめくられている。それをもう一度張ろうと思えば、同じ釘穴に釘を打ってしまってはユルユルで釘が効かない。仕方がないので少しズラした位置に釘を打つ、その跡ではなかろうか。
どうやら間違いなさそうだ、古い板には必ず釘穴が余分に開いている。
これを仮に「大阪城 古い板は釘穴二つの法則」と名付けることにする。と悦に入りつつ、ふっと辺りを見回すと、古い床板と新しい差し替えの床板の配置に、なるほどっと思わせる点が見つかる。新しい床板は、この櫓の入り口から出口への最短距離の通り道、つまり人が一番多く通る部分に集中している。と、いうことは、おそらく、おそらくなのですが、昭和34年に始まる解体修理の際に、この一番人通りが多い部分の床板は磨耗し過ぎて再用に耐えず、新しい床板に取り替えられた。その際、古い床板に残るハツリ跡に敬意を払いチョウナハツリを施した、ということではなかろうかと。
その目で見ると、手前部分は新材(新しいって言っても昭和34年の修理だから60年近くは経っているのだけれど)、余分な釘穴は無い。奥の三分の一程度がおそらく400年前の旧材。よく馴染んでいると言える。
これも同様に手前3分の2が新材、向こう3分の1が旧材
あ〜スッキリした〜、こういうことだったんだなぁ、と見学終了〜
お勤めご苦労さまです。
と、書いてきて、やっぱり気になる、なんだか気になる、ど〜も古い床板をツラツラ見てたら、あれってなんだか杉ぽくなかったかなぁ。新材は全部ヒノキだったんだけど。杉だと磨耗し易いからヒノキに替えたのかなぁ、それとも元々ヒノキだったのかなぁ、あ〜気になる、と思ったら、今年は11月まで毎週土日祝日は見学出来るみたいだし、夏休み期間中もずっと公開してるようだから、また行く、絶対行くぞ〜
↓櫓はいつでも見学出来るわけではないので、公開情報は大阪城のホームページでご確認ください。
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