昔のハツリ跡

松本城のハツリ跡には、三つの時代がある。

松本城には沢山ハツリ跡が残っているらしい、と聞いてはいましたがなかなか見に行く気になれずにいました。それは僕が長野はめっちゃ遠いと思い込んでいたからだったのですが、ネットで行き方を調べると、名古屋からワイドビューしなのという特急に乗れば2時間ほどで松本城のある松本駅に着いてしまうようでした。う〜ん、こうなれば行くしかないぞ〜、と早起きして三重県の津駅から6時半の電車に乗ると10時頃には松本駅に着いたのでした。

雪残ってるやん、うっ、サブい〜

そして寒さを増幅するためのこのような仕掛けも

今日はそれは勘弁してください。

と、歩いて15分ほどで天守閣に着いてしまいます。

天守閣に入ると早速にハツリ跡がお出迎えなのですが、

どうもいけません、いろんなお城を見るたびに段々用心深くなっていて、ついつい、これは本物(つまり創建当初のもの)だろうか?と身構えてしまう。ひとまず判断保留で進んでいく。と、あるわあるわ、柱や梁といった大きな構造材にはほとんどハツリ跡が付いている。

しかし、である。何かが違う、と感じてしまう。

仮に、これが江戸時代の柱です、と言われてもちょっと信じられないよなぁ、と。風化の具合からいって何百年前の柱ではなさそうだ。こういう時にまずすべきは、目に付く材の中から特に古そうな材を見つけて、それをよ〜く観察して、その特徴を掴んでしまうことだ。

こういう、今は使われていない穴が空いた材、キズが入った材は大方古いものであることが多い。おそらくは当初材であろう。この風化具合、ハツリの感じというのをジィ〜と見て覚えてしまう。すると「眼」が出来上がる。その感覚を持って他の材を見渡すと、時代が違うものはすぐに見分けがつくようになる。やはり天守閣に入ってすぐのハツリ跡は古いものではなさそうだ。この柱と同じ時代の精神を共有していないような気がする。

このあたり、ほとんど新しいね。と、いうより古いものの割合がパッと見たところ2割くらいかもしれない。松本城は明治の頃には相当傾いてしまっていて明治の大修理・昭和の大修理、と二回も大きな修理をしているので、当初の材はあまり残っていないのかもしれない。「日本の匠」という本によると、昭和の修理時にも幾らか材を取り替えた、文部省が特別に作らせたチョウナでハツリ跡を付けたとあるので、新しいハツリ跡にも明治と昭和の仕事が混ざっているはず。だけど、明治と昭和の修理の間は40年しか空いていないので風化の差もほとんど無いから見分けがつかない。

江戸時代の材と明治・昭和の材との違いは風化の具合もさることながら、材料が作られた過程の違いによるところもあるのだと思われる。江戸時代の材は、おそらく丸太をマサカリでハツってその後チョウナで整えるので、丸から四角を作り出す時の自然な揺れ、凸凹なものを整えようとする時に生じる“たゆたい”、というものがある。明治・昭和は能率の面から四角く製材してピシッと寸法で出た材に模様としてハツリ目をつけていくので、不均一さも意図的に“演出”されたものであるし、凹凸を平らにする時のようなメリハリの効いた緊張感も薄く、ちょっと漫然とした印象になってしまっている。しかし、これを只に材を作る過程の違いの所為に帰してよいものだろうか?たとえ平らな材にチョウナを打ってゆくとしても、もう少し当初材に近づけようという意図があっても良かったのではなかろうか。刃を当てる角度からして江戸時代のものに少しも似ていない。どの材を差し替えたのか殆ど見分けがつかないような、そんな修理は出来なかったものだろうか。例えば、音楽家が何百年も前の楽譜を一音一音丁寧になぞるような、過去の仕事への献身的な態度というものはほとんど感じられない。ま、こんなもんでいいだろう、という声が聞こえてきそうである。職人というものが尊敬されないのも、これじゃ当然だという気がしてくる。

わずかに残された創建当初のハツリ材は、少しも似ていない“兄弟“に囲まれて、何を思うのか……………。

 

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