と、言ってみたものの、なんでそう思うかは自分でもよくわかってなくて、改めて考えてみると、
こんだけ山も森もある国で、なんで外国から木を持って来ないといけないのかよくわからん
と、これに尽きるかと思います。
要するに日本にはいっぱい木があって、たいていのことは出来るんだけど、たとえば、幅が1mもある一枚板のテーブルを “お値打ちで” 欲しい、とかいう要求があるから、それじゃ国産材だと高いから駄目だから、と経済格差(というかカネ)にモノ言わせて物価の安い国から仕入れてくる、ということになる。結果、日本の商社が主導して東南アジアやアフリカで大木がズバズバ伐られることになる。と、こういうことには加担したくないんですね。
ま、あとは輸入材につきまとう、怪しげなネーミングが嫌、というのもある。建築材でよく使われる米松(ベイマツ)も、マツだという事になってるけど、あれはトガサワラ属でマツ属ですらない。材木屋も大工もそんなこと知らずに、なんとなく松に似てるからアメリカの松だ、日本の松の代わりに使えるぞ、とそういうことらしい。高尚な匠の世界とは、そんなもんです。
他にも、 米杉(ベイスギ)という名前で売られてる木はヒノキ科クロベ属で、杉じゃなくヒノキやネズコの仲間です。売り手の都合で売りやすい名前が無理矢理つけられちゃってるわけで、こういったことは枚挙にいとまがない。なんだか嘘ついてるような後味のわるいことっていったらもう……。
ラオス檜、カンボジア松、アフリカ欅… 日本人がどこで環境破壊をしてるかを、わざわざ宣伝してるみたいなもんです。見えない所で伐られていると、どんなことが現地で起きているかわからない。実際、外国では違法伐採というものが、ある。今建設中の新国立競技場コンクリートの型枠のベニヤに違法伐採された熱帯雨林の木材が使用されてたとの疑念も出ている。日本で社寺建築材として盛んに使われた台湾檜は今や伐採禁止である。これが逆の立場だったらどうだろう? どこかの国が大金持ってやって来て木曽ヒノキの大木を伐採禁止になるまでズバズバ伐って持って行っちゃったとしたら?非難轟々になるはずです。しかし、日本人はすでにそれと似たようなこと、あるいはもっとヒドいことをすでに他国でしている。「自分がされて嫌なことは人にはするな」、という、幼稚園児でも理解できる倫理観は、知らないうちに知らないところで、そっと踏み潰される。「だって大きな木を安く欲しいんだもんっ」
頭の良い方々は、まず第一に、壮大な計画を立てる。その壮大な計画の実現のために必要な材料は?というシステムで物事が進む。すると、どうやらそんな材は日本に無いらしい。あったとしてもとても高価だ、困ったな〜と実に頭の良い人らしい思考回路を経て、頭の良い人らしい手際の良さで、どこからか材を手配してくる。かくして、カメルーンからやって来た巨大なアフリカ欅の柱で興福寺の金堂が再建されることになる。日本の頭のいい人達が立ち回ると、カメルーン国は神のような大木を日本のお寺のために失うことになる。これが仏教の教えるところの因果応報というものなのである。ナムアミダブツ。アタマの悪いわたくしは、日本に大きな木が無いなら、その現状に相応しい小さなお堂を建てればいいじゃないか、それが “この国の形” ってものじゃないかい? って思うんですけど駄目なんですかね?あるいは、今から木を植えて200年後に建てればいいじゃん、と思いますけれども。これも何度か書きましたが、要するに、今どんな材料があるかというところから発想するか、カタチから入るかの問題で、先に無理のあるカタチを決めちゃうから、強引に材を集めざるを得なくなる。発想が逆なんですよね。そして建築の分野ではしばしば、その強引な材集めさえ美談として語られる。◯◯先生は、この材料一つのために原木を何本も潰したんだ、というようなことが美談として語られる。こうなると木は、単にデザインなり設計なりを具現化するための「ネタ」に過ぎず、まだ生きられたかもしれない木の命を頂くというような峻厳さは何処かに吹き飛んでしまう。
「 だって大きなお寺を安く建てたいんだもんっ」
無邪気な欲望の暴走は、「建てる」という想像的な行為を、破壊と欺瞞で満たしてしまう。
私はごく単純に、無理難題を解決する優秀さより、はじめから無理難題を作らない賢さ、の方が尊いと思いますけれどもね。
家具の世界でも輸入材流行りである。一時期は猫も杓子も人間国宝までブラックウォルナット、ブラックウォルナット流行りでありました。他にアメリカンチェリー、ホワイトアッシュとかロシアの楢とか。こういった木は今まで挙げてきた木と違うのは、そんなに安くないってこと。でも、 なんで使われるかっていうと、一言で言えば、お手軽に高級感が出せるから、っていうことですね。忘れられない会話がある。とある某家具作家に「こんだけ木がある国で、日本の木で作っちゃ駄目なんですか?」とシンプルに問うたところ、「杉やヒノキじゃ高級感が出ないから駄目なんだ」とこれまたシンプルな答えが返ってきた。なるほど、家具の世界では、外材(輸入材)というのは、そういう位置づけなんだ。消費者にわかりやすく”高級感”を感じさせるためのツールなんだ、と。名前がカッコいい、っていうのもポイントですね。しまし、どうなんでしょう、素材の高級感に乗っかったモノ造り、って。なんかラクしちゃってないかな。工夫が足りなくないかな〜。しかも、そのために外国で伐られた高級な木が高級な重油をガンガン焚きながら高級なタンカーに曳かれて海を渡ってくるわけですよ。そうして作られた高級な輸入材製の家具に “環境先進国” ドイツ製の塗料が塗られて完成〜、って一体どこの国のモノ造りやねんっ!? と、まあ、こういう仕組みなわけです。消費者の皆さまもね、そういう “演出された” 高級感に弱いんです。ここでもやっぱり、木が単にデザインをカタチにするための “ネタ” になっちゃってる感じがしますよね。“命を頂いてる感” が減退してるのを感じざるを得ないんです。
と、長々書いてきましたが、そういうわけで、自分は国産材しか使いません。手持ちの材料の加工だけ頼まれたらやりますけど、自分は材料としては一切買いません。カネにモノ言わせたデカい南洋材とか、よくわかんない “高級感” から遠く離れて、”そこら辺にある木” でオモロいもんが作れたら、それでいいと思ってます。
日本の山で、今日も山の手入れに余念のない方々がいます。そういう人たちが少しでも報われるようにしないとですね、この国でモノ造りをしていく意味が無いと、思うんです。
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