雑感

技術と熱量をブチ込みまくるとコンクリートブロックになってしまう、という話。

 

壁、である。それも土を塗った壁。地球上いたるところが土なので素材として最もありふれたものである。誰が見ても「土だ」という質感に溢れている。実際それほど高度な技術が必要なものでもない。竹を編んで田んぼの底土に藁を混ぜて塗った程度のものである。しかしまた、この質感を別のもので再現せよと言われると非常に難しい。素朴過ぎるものはイミテーションが生まれない。代わりになるものがない。

一方、同じく塗った壁でもこういう壁ではどうだろうか

漆喰塗りの白く均一な表面は人間が塗ったとは思えないほど平滑で少しのムラもない。大変な技術・厳選された最良の材料が投入されているのは明らかだ。しかし、である、それに気付くのは一部の建築関係者だけで、一般の方から見れば例えばコンクリートにペンキが塗ってあったとしても殆ど区別が付かないものだとも思う。ニセモノを使ったとしても1000人中998人くらいは騙せてしまいそうだ。逆に言えば0.2%の人に「あ、いい仕事してるね」と言わせるためにやっているようなものである。

と、ここで一つの考え方に行き当たる。素朴なもの、それほど技術を必要としないものはなかなか代用出来るものが無いのに、高い技術を投入したものほど比較的容易に化学的なものでマネが出来てしまう。素材は同じく天然由来のものを使用しても、そこに加えられる手間・技術によって違いが出てくる。

さきほど挙げた壁でいえば、一方の土壁は泥に繋ぎとして藁の繊維を練りこんでコテで塗っただけのもの。素材に加えられる手間も技術も最小限のものでしかない。もう一方の漆喰塗りは、漆喰の主原料である石灰がまず、山で採掘された石灰岩を一度高温で焼成しそれを細かい粒子になるまで粉砕したもの。それをさらに水に溶いて、細かく裁断された植物の繊維(スサという繋ぎ)・炊いた海藻糊と混ぜたものが漆喰。という具合で、「塗る」という技術が投入される以前の材料の時点で既に大量の手間が投入され、材料は高温で処理されている。

土、の素朴な表面はいかにも自然の恵みといった表情で大地との繋がりを感じることが出来るけれども、漆喰の白く冴え切った表情を見て、例えば石灰岩の山の恵み、海藻糊の海の恵みといったものを感じられるのはよほど感性豊かな人でないと無理であろう。これは一体どうしたことであろうか? (ここではその優劣を語っているわけではない)

つまるところ、「自然の素材に熱量と技術を加えれば加えるほど人工物に近付いてしまう」ということではないかと。

さらに、これをもう一歩進めると

こうなってしまう。

セメントの主な原料は石灰岩・粘土・ケイ石・酸化鉄と自然由来のものなのに、それらを高温で熱して冷ましたのち非常に細かく粉砕し、そうして出来たセメントに砂と水を混ぜて溶いて攪拌し型に入れて固めたもの(コンクリートブロック)、とここまでくると、もう100%人工物としか言えなくなる。これを自然素材だと言い切るのはかなり難しい。やはり熱量と技術は素材のあたたかみを消し去り、その姿を大きく変えてしまう。

 

これを木材の分野で見てみると……

伐ったままの木

皮を取った程度の加工で曲がったまま使った柱

製材されて、ぴっちり厚みが揃えられた板。熱を加えて乾燥させてある(人工乾燥材)

小さく細切れになった木材を接着剤で固めて一枚にしたもの(集成材)

乾燥時には熱が用いられている(人工乾燥材)

 

と、このように段階を進めば進むほどに、あたたかみは後退し人工臭が強くなる。熱と技術が加わるほど人工的になってしまう、という法則はどうやら木材にも当てはまりそうだ。

一般的には、手間暇をかける・高度な技術で加工するのは良いことだ、という観念があるにはあるのだけれど、自然の素材のもの作りにおいては、それはしばしば諸刃の剣とも言える。

我々は知らず知らず、いつのまにか、これは手作業で何時間も磨いて仕上げたものだ、とか、何度も何度も塗り重ねることでしかこの風合いは出せない、とか、最高の砥石で研磨した刃物で仕上げた、とか、そういうことを無邪気に良いことだと思い込み、手間をかけ手間をかけていくうちに、出来た結果が

のようなものに近づいてしまう、という危険は常につきまとう。

良いものを作ろう、という果てしもない情熱は時に冷たい技術の抜け殻ともいうべき結果をもたらすことも、ある。

この穴の開いた塊は、そういうことを教えてくれる。

これに少しだけ似たようなものとしては……

こういうものがある。規格通り四角く加工されたもの、という点は共通しているけれども、受ける印象の何と違うことか。おそらくこれは生産の過程での、材料の粘土を固めて焼いただけ、という単純さがこの違いをもたらしている。セメントのように、それを再び粉砕して云々……といった複雑な工程は経ていない。それがためにブロックのような人工的な冷たさがない。焼いた時に歪んでしまうので形は厳密には揃わないが、そこが良さとも言える。色にはムラがあるし角が欠けてさえいるが、それすら「味わい」として許容されうるのだ。加える熱量と技術の少なさが、素材を救っている。人間がどこまで手を加えるか、その線引きを探る、これは足し算というより引き算の美学だ。しかも、その工程により材料のままでいるより、遥かに実用性を増してさえいるのだ。粘土のままなら水に溶けてしまうが焼かれた粘土は水には溶けない、耐熱性も増している。粘土のままでいるより遥かに高く積み上げることが出来る。いいことを挙げればキリがない。

 

 

緻密さ精密さを指向する手仕事は、これからはどんどん機械化されてゆくような気がしている。なんとなれば、それらの手仕事は多分に機械的な要素の多い作業を含んでいるから、機械化に馴染みやすい。洗練され過ぎたものには出せない味わいを生み出すレンガのようなモノ作り、素材を加工し過ぎず、それでいて素材をもう一段上の高いものに昇華してしまう、そういう技術がこの高度にIT化されゆく世の中にもあっても良いのではないか、とそんなことを思うのでありますよ。

さてさて、今日はどのくらい焼きましょうか……

 

 

 

 

 

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