釿(ちょうな)は石器の時代から存在します。このような単純な形のものは誰でも思いつくものですから、世界中至るところで木の伐採・加工などに斧と共に使われてきました。考古学の分類では釿は斧の一種ということになります。およそ3万年前、人類が南方から海を渡って日本列島に移り住むようになった航海の際にも、石器の釿で丸太の内側を掘り取った丸木舟が使われたと想定されています。
釿(ちょうな)は石器の時代から存在します。このような単純な形のものは誰でも思いつくものですから、世界中至るところで木の伐採・加工などに斧と共に使われてきました。考古学の分類では釿は斧の一種ということになります。およそ3万年前、人類が南方から海を渡って日本列島に移り住むようになった航海の際にも、石器の釿で丸太の内側を掘り取った丸木舟が使われたと想定されています。
弥生時代に入り鉄器が使用されるようになると、釿も鉄製のものが現れます。全国各地の遺跡からその時代の釿が出土していますし、釿の加工跡のついた木材も出土しています。鉄器になり、木材の利用がより効率的になり加工技術が進んだことは想像に難くありません。現代の目で見ても驚くべきレベルの非常に綺麗な加工跡が見られます。
弥生時代の後、古墳時代〜奈良時代にも釿は使われ続けています。特に平城京跡を中心に奈良時代の木材が多く出土していて、博物館などに現物がそのまま展示されており、1200年以上前のチョウナの加工跡がよりはっきりと肉眼で確認出来ます。
日本最古の民家は兵庫県にある箱木家住宅です。室町時代後期ですから500年ほど経っていることになります。といってもそのままそこにずっと建っているわけではなく、やがてダム湖に沈む運命だったのを解体して現在のところに移築されたものですから、その全てが旧状のままではありません。当初からの材は少ないです。とはいえ、調査の結果を踏まえて復元されていますので、当時の民家がどのようなものであったかを伝える貴重な建物です。材料は殆ど松の木で、ほぼ全ての材がハツリ仕上げです。といっても風流でやっているのではなく、斧で丸太をハツってだいたい真四角に成形しチョウナでコツコツ表面を整えるという古来の製材法によるものです。更にヤリカンナなどで平滑に仕上げることは技術的には可能なはずですが、これ以上の手間はかけられないということでしょう。これより古い民家は残っていませんから想像するしかないですが、おそらくもっと古い民家も仕上げは似たようなものであったと思われます。これ以降、江戸時代中期くらいまでは民家においては仕上げはハツったままが標準です。庶民の家はハツったままが標準仕様、という時代が千数百年は続いたと思われます。
安土桃山時代から始まった茶の湯の隆盛とハツリ仕上げは密接な関係があります。これは主に千利休の弟子であった武家の茶人による造形の影響です。ネットで検索しますと、釿のハツリ仕上げを茶室に取り入れたのは千利休だ、というようなことが書かれていあるのを目にしますが、全く正しくないです。千利休が残した茶室は京都大山崎・妙喜庵の待庵しか存在せず、待庵には壁止めの丸太に少しだけハツったような跡が少し残る程度です。これは他のどこでも見られるようなもので、よく言われるように節や丸太についた傷を隠すためにちょっとハツったとか其の程度ものでしょう。待庵の材料はどれもこれといった特徴の無いもので、その一見平凡な中に緊張感のある空間を作りあげる、というのが利休の流儀でその美学は利休の師であった武野紹鴎の「座敷の様子 異風になく 結構になく……目に立たぬ様よし」という言葉に集約されています。千利休の茶の湯は「侘び茶」という深い精神性を追求するものですから、全面ハツリ仕上げのような目に立つものを目に立つ所に使うというのとは全く方向性の異なるものです。むしろ、ハツリ仕上げを積極的に茶室に持ち込んだは利休の弟子でありながら全然師匠の言うことを聞かない二人のサムライ、織田有楽(信長の実弟)・古田織部です。特に織田有楽は利休流の一畳半や二畳半という狭く暗い茶室で行われる侘び茶を「客を苦しめるに似たり」とあからさまに批判しています。侘び茶のような厳しい精神性を求めるのではなく、武士としてもう少しゆったりとした自由な心持ちでおもてなしの空間としての茶室を、という思想の結実を彼の晩年の作「如庵」に見ることが出来ます。
そこでは床柱は画像のような何角形とも言い難いボコボコにハツり倒された形をしています。千利休がこれを見たとしたら卒倒していたことでしょう。注目すべきなのは民家でのように仕方なくハツったままの柱を使っているわけではないことです。削った柱・磨き丸太など色々な選択肢がある中であえてハツリ倒した柱を使っていることです。ここに有楽の作意があります。敢えて「ハツる」という人の手を加えることで自然の素材の持つ力強さ・勢いといったものを引き出す、ということです。今の言葉で言えば、デザインとしてハツリを取り入れているということです。その例として現存するもので一番古いのではないでしょうか。古田織部の作と伝えられる茶室にも必ずといってよいくらい目立つところに大きなハツリ跡が付けられています。織部の創始した燕庵形式のお茶室は江戸時代初期に大流行し、「写し」というそっくりに作った茶室が沢山建てられたそうですが、その本歌の床柱は杉の六角ハツリ柱であります。また古田織部の弟子である小堀遠州の遠州流の茶書「茶之湯評林大成」には「床柱赤松の皮つき 木どり其の上をてうの(手斧)にてさくる也」とあり、小堀遠州作と伝わる茶室の床柱はその記述の通りになっています。ハツリの刃物でスパっと切ったような造形が刀を扱う武士の心に響いたのかもしれません。遠州の時代の頃になると、利休の侘び茶を受け継ぐ流派の茶室にもハツリ仕上げが取り入れられてゆき、ハツリの造形は茶の湯の文化と深く結びついて欠かせないものとなってゆきます。もともと粗野な下仕事に過ぎなかったもの、大して価値を認められていなかったものを、その独自の美意識で「美」に昇華させてしまったところに初期のお茶人達の凄みがあり、ハツリ跡に美を見出したのは紛れもなく彼らの功績なのです。そして、そこに千利休が関わった形跡は殆ど無いのです。
お城は大きな部材を大量に使いますし、また軍事施設ですから非常に短い期間で建てられることから、その一つ一つの部材を綺麗に仕上げてはいられないということになります。室町時代頃には大きな鋸を使って製材する技術は出ていたようですが、何しろ鋸で木を挽くというのは時間がかかります。そこで丸太を斧でハツって大体の四角に成形し、チョウナでコツコツ表面を整えるという古来からあるハツリ製材と割り製材という手法が取られます。そして少し格の高い部屋などだけ、そこから更にカンナをかけて綺麗に仕上げる、ということであったと思われます。ですからお城の部材にはチョウナでハツったままの材料が沢山見られます。一般的に古いお城ほどハツリ跡が多く残っています。時代が進むと鋸の製材が効率的になって主流になり、わざわざハツリ製材した材を使う必要がなくなるからです。火災で焼けてしまったなどの理由で江戸時代に入ってから再建されたお城には殆どハツリ跡が見られないのはこのためです。このように、鋸による製材の技術が進むと斧やチョウナの出番は次第に減ってゆきます。
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