いつの間にやらチョウナ仕事を専業にしてから9年が経っていました。ここまでなんとかやってこられたのも皆々様方のおかげでございます。ありがとうございます。本当に感謝しております。
さてさて、はじめた当時のことを思い返すと、勤めていた工務店は経営破綻寸前でお給料もまともに支払われず、はてさてどうしたものか?と思い悩んでいたものでした。そこを辞めて別の工務店に勤めて空いた時間でチョウナのことをやっていこうかな?なんて都合のいいことも正直なところ頭をよぎりました。なんとなくその時は「二兎を追うものは一兎をも得ず」と何の根拠もなく直感的にチョウナ一本に絞っていこうと思ったものでした。結果的にこれが良かったと思います。
のちに偶然なのですが、当時自分が何の根拠もなく感じたことに、根拠を与えてくれる説というか法則のようなものに出会いました。それは「一万時間の法則」というもので、アメリカのフロリダ州立大学のエリクソン博士が見出したものだそうです。エリクソン博士は演奏家やスポーツ選手、料理人など様々な「専門職」としての仕事に従事する人々が一体どれくらいの時間をその技能の習得に費やしたかを調査した結果、およそ共通して1万時間がその目安となることを発見したそうです。ひとくちに1万時間と言われても、なかなかどれくらいの量なのか想像しにくいですが、例えば毎日3時間の訓練を1日も休まず一年間・365日費やすと1095時間。10,000時間÷1095=9年と少し、となかなかに長い期間が必要です。たとえ毎日三時間でも、学校に行っている生徒や仕事についている人が訓練のためだけに捻出するには、なかなか厳しいものですね。1日休めば、次の日には6時間費やさないと挽回できません。しかし、例えばですが、プロ野球のドラフトにかかるような高校生について想像すると、小学一年生で野球を始めたとすると高校卒業まで約12年間。1万時間÷12年=年間で約833時間 1日あたりでは2時間15分程度です。これですと、なんとなくいわゆる「プロ」のレベルに到達している選手なら最低でもこのくらい費やしていそうだ、という想像がつきやすいのではないでしょうか。8時間くらい練習をする日もあるでしょうけれど、悪天候ですとか修学旅行など学校行事、テスト期間などは練習出来ないとかを勘案しますと、1日平均2時間程度になりそうです。こう考えると、この1万時間というのは訓練時間の目安としてまずまず信頼のおける数字ではないかと思えてきます。
また、話は変わりますが、何年かに一度現れマスコミを賑わす「神童」についても、この「1万時間の法則」で説明がつきそうな気がします。例えば「8歳にしてピアノをプロ並みに弾きこなす天才」なるものがマスコミに取り上げられることがありますね。当然、人々は驚き、まさに神童、と神がかりなものさえ感じるわけです。しかし、仮にこの8歳児は3歳からピアノを始め、未就学児ということもあって時間をふんだんに使えるので1日6時間練習したとします。すると年間2190時間費やしているので、約4年半後・7歳半の時に1万時間に到達してしまいます。つまり、この8歳児は神の子だから素晴らしい演奏の技量を持つのではなく、8歳で「プロ」として必要な1万時間の訓練を修了しているから当然プロ並の演奏技術を持つ、単純にこういうことではなかろうかと思われるのです。身も蓋もないことを言って神童伝説に水を差して申し訳ないのだけれど、これが本当のところではないでしょうか。そしてまたこのことで、かつての神童が何年かするうちに忘れ去られてしまって名前を聞くこともなくなることの説明もつきそうです。つまり、神童になれなかった他の人々が例えば10歳でピアノをはじめて毎日三時間半練習すると音大に入る18歳になる頃には1万時間に到達している。そこから先はプロとしての技量に到達した者同士の表現力や芸術性のしのぎあいになってくるので、かつての神童がそこで優れるとは限らない。それどころか、神童として子供時代を過ごすことでチヤホヤされたりして偏った実生活を送るせいで感情の面で歪になる恐れまである。あくまで1万時間は必要最低な条件であって、十分条件とはいえない。プロ野球選手なんかも、1万時間という最低基準はとっくに超えた者同士が更なる高みで鎬を削っているのだから当然エグいことになる。単純に1万時間を費やせばそれで安泰というわけでもない。
また、これは想像がつきやすいですが、この1万時間はあくまで濃縮した訓練の時間である必要があります。例えば、20歳で就職してから車で毎日往復で一時間通勤しているAさんがいたとします。年間250日出勤として年間250時間を車の運転に費やしていることになります。1万時間÷250=40年。40年で一万時間に到達します。ですが、このAさんが60歳の定年退職の歳になった時に突如としてプロ並みのドライビングテクニックに目覚めることは無いであろうことは想像にかたくない。それどころか、Aさんの運転技量ははじめの何年か緩やかに上昇してその後はゆっくり下がる一方のはずです。だから訓練は集中して行わないといけない。「趣味で」バンドを何十年もやっているお友達が、いつまで経ってもプロのレベルに到達しない歌をガナリ立てているのには、ちゃんと理由がある。仕事の合間に、とか、やる気のある時だけ練習する、では仮に長い年月の間に通算一万時間に達したとしても、プロとしての基準には永遠に到達しない。調子ハズレの歌を歌い続けるほかない。
長々書いてきまして結局何が言いたいかといいますと、「専門職」として生きるにはまずは1万時間をブッ込む必要があるし、そうなると兼業や副業では超難しいというか絶対無理!ってことです。専業で毎日毎日8時間とか10時間やっていれば、3年〜3年半で嫌でも1万時間に達してしまう。「石の上にも三年」というではないか。一つのことをやり続ける、突き抜けるにはこれしかない。どっかで大工さんやりながら空いた時間で、の道を選ばなくて良かった。ただのクソ素人で終わるところだった。片手間でやってることなんて、所詮は学生の文化祭の出し物レベルのことなんだよ。
ここに気付いた時に、教えに行ったり実演しに行くということを止めました。以前は、「教えに来てください(タダで)」「(お金を払う気はないけど)実演しに来てください」という要望がしばしばありました。自分も良い事してる気になってノコノコ出かけて行ったものでした。しかしですね、こういう風に「タダで」って気軽に声をかけてくる人達っていうのは人生で一つのことに真剣に取り組んだことが一度もないので、ひとつの技術の習得に1万時間かかるなんて想像したことすらないんです。なので、「お前、なんか面白そうなことやってんな〜、教えに来いよ」っていう程度の発想しかないわけです。教わるほうだって、「これから毎日休まず三時間練習を九年続けて1万時間費やしてプロを目指します」というような覚悟もあるわけないんですよ。「なんか面白そうだから、ひとことでコツを教えてよ」ってなもんで。あぁ、これは全く無駄だな、と思いました。無駄な上に危険でもある。生兵法はケガのもと、とはよく言ったものです。知らない人から電話がかかってきて「研ぎ方教えてよ」って言われたこともありました。電話で「ここをこうして研いで、ああして」と伝えたところで何の意味があるのだろう?こういう繊細なことを会ったこともない人に電話で伝えることが出来ると勘違いしてる時点でその人は専門職には向いてないと思います。一生何者にもなれないよ。
柄のすげ方ですとか、刃の仕込みの角度を質問してくる人もいます。これには答えが無いというのが答えです。角度が間違っていても正しくても、一万時間ブッ込めば自然と間違いに気付くし最適な角度が勝手に見つかるもんです。野球のバッターを見ればいい。みんなてんでバラバラのフォームで打っていて、みんなそれぞれ成果を上げている。それぞれが試行錯誤して自分なりの最適解を導き出している。誰にも通用するわかりやすい答えなどありようもない。なのに、わかりやすい答えを求めて質問する。なぜか、それはキミが一生何も成し遂げられないダメな奴だからだよ。
「本に◯◯の角度が良いと書いてありますが、それで正しいですか?」と聞かれたこともあります。これも全く無駄な質問です。このような質問をする時点でセンスがなさすぎて、もうダメ、無理。一万時間ブッ込めば、◯度が正しいとかそういうことは言えないのが正解だと気付くはずです。だから、そんなことを気楽に本に書いてるのは「素人」だからなんですよ。素人が書いたものを「それで正しいですか?」て私に聞かれても「知らんがな」としか答えようが無い。書いたヤツに聞けっ。
そして、かつて私に仕事を頼んできていた大阪の悪徳名栗業者のことを思い出しました。ここは「ウチは名栗仕事を大工の◯◯ちゃんに頼んでますよ〜上手いですよ〜」なんて言ってたわけですが、上述の通り専門職になるには専業しか無理なわけで、片手間で遊び半分でやってる「クソ素人大工」に頼んでるわけです。そんなゴミのような仕事でも、見る目の無い者には上手く見えてしまうんだ。学生の文化祭レベルの仕事にお金を払わされる客が気の毒で仕方ない。こういう人の言う事っていうのは本当に面白くてですね、頭が悪いから自分で自分が何を言ってるのかすらよくわかっていないんです。要するに「ウチは素人に作業させてますよ〜、でもお客さんからはプロ並みのお金を貰ってますから儲かって仕方ないでっせ〜ワッハッハ」って言ってんのと同じなんですよね。ああいう輩のイカれた思考回路というのは、常人の理解を超えている。あれは一万時間以上ウソをついてきた、謂わばウソのプロフェッショナルなのだ。
ちょっとここで、ま、傲慢かもしれませんが、自分なりに一万時間に達する過程で気付いたことを記しておきます。
まず、見えなかったものが見えるようになります。これはもちろん、オバケが見えるとかそういうことでなく……それまで見えなかった微妙な色の違い、例えば刃物がキレてる時とキレてない時の木の色艶の違い、とか。同じものを見ていたはずなのに、なんで今まで気づかなかったんだろうか、というような微妙な違いがハッキリとわかるようになります。文化財などでニセモノが使ってあってもすぐに気付くようになります。文化財などは、ちゃんとした大学の教授が監修したはずですから間違いがあってはいけないのですが、実際には沢山あります。賢いはずの彼らが迂闊にも見落とした差異にも気がつくようになる。他にも色々ありますが、これも畢竟、見えるようになった人にしか理解できないお話ですので、この辺でやめておきます。
次に、これも似たような話ですが、聞こえなかったものが聞こえるようになります。一例だけあげると、例えば木をコツコツ叩くと「あっ、この木はこっちの方向から刃物を入れると良いぞ」という考えが降ってくるわけですが、どうしてわかるのか、自分でもわからないし説明のしょうもない。エンジンの音を聞いただけでどこに不具合がわかってしまうような人も同じようなことなんだろう。たぶん一万時間をブッ込んだ人にだけ貰えるご褒美みたいなものなんでしょう。
禅の言葉が基本的に全く意味不明なのも、そういうことなんだと思います。例えば、拍手は両手でするものなのに「隻手の声を聞け」つまり片手が拍手する音を聞けっていうんです。普通に考えたら「何言ってんの?」くらいのもんです。これもきっと「超えた」人には、「あぁ、あれのことね!」とニッコリして膝を叩くような事柄なんでしょう。普通の言葉で説明できる領域ではない。
野球のイチローさんが、しばしば、というかほとんどいつも、記者会見の時に不機嫌そうだったのも、なんだかわかるような気がします。ああいう方達は、普通の人では見ることも感じることの出来ない微細なレベルの調整を繰り返していたはずです。しかし、明らかに野球をそんなに見ていない記者からの質問が「最近少しバッティングフォームが変わったようですが、いかがですか?」みたいなことですから。禅者に「隻手の声を聞けとはどういう意味ですか?」と質問するようなものだ。仮にこの質問に微に入り細に入り答えたとしても、その言葉の意味はそこに居る誰にもわかるはずがない。だから、不機嫌そうに「あなたにそう見えるのなら、きっとそうなんでしょうね」というような答えしか返ってこない。普通の人が見えないものを見ている人の言葉は、普通の人には届かない。記者の質問の筋が悪過ぎる。
イチローさんの言葉で自分に一番響いたのは「努力を努力と思っているうちは、楽しんでやってる奴に勝てない」というものです。「頑張って一万時間に到達するぞ、オー!」というような決意で事に当たると、おそらく続きません。無理くり頑張ってもツラいだけです。自分もここまで随分と「訓練」という言葉を使ってしまいましたが、これも良くない。結果的に「訓練」になっていたとしても、本人の中では訓練ではない。任天堂の故・岩田社長の「自分はそんなに頑張ってるつもりはないのに周りが褒めてくれる仕事、それがあなたの天職です」は、おそらくこのあたりの事情を語っている。「これは難しいけど面白いな、こうやったらいいのかな?」と、夢中でやってるうちに、いつのまにか一万時間に到達し扉が開く、見えなかったものが見える、聞こえなかった音が聞こえだす、こういう流れがいいんだと思います。誰かにカメラを無理やり持たせて「明日から毎日毎日三時間写真を撮りなさい。そうすれば10年もすればプロになれるよ」と強制しても上手くゆきそうもない。けれど、いつでもどこでもカメラを持たずにいられない、写真を撮り出すと夢中でシャッターを押していて気付いたら三時間も経っていた、カメラを持っていない時でも脳内変換していつもファインダー越しの世界を見ている、そんな人がいたらその人は自分で気づいてなくても既に写真家なんだ。
自分は大したことは出来そうもないですし、上手くいかないことも多かったし、たくさん騙され利用されもしましたが、なにはともあれ一つのことに一万時間ブッ込んでみれたというのは自分は幸運なほうだったと思います。これからも「楽しんで」やれるところまでやってゆきたいと思いますので、ひとつよろしくお願いいたします。
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