昔のハツリ跡

弥生時代の先祖を見つけたよ。

奈良で民家を見に行った後、前から気になっていた「唐古・鍵遺跡」を見て来ました。なぜ気になったいたかというと、弥生時代の2000年前のケヤキの柱が展示されていると聞いたからで、ホンマかいな!?と思っていたからです。木工具の歴史の本などで縄文時代は石器でも加工しやすい栗の時代、弥生時代には杉やヒノキなどを鉄器で加工していた、と読んでいたので弥生時代にあの堅い堅いケヤキが使ってあるというのはかなり意外でした。

しか〜し、再現された発掘現場の

この穴の中に3箇所も大きなケヤキの柱が残っていたそうだ。

発掘時の様子

こんなのが土の中から出てきたら、それはそれは驚いたことでしょうね。

この当時は「掘っ立て式」で穴を掘ってそこに柱を建てるやり方ですね。柱の脚元は非常に安定しますが、地面近くが腐りやすい欠点があります。ここから数百年後、法隆寺の建築群が建つ頃には石の上に柱を置く方式に変わっています(五重塔の心柱のみ掘っ建て)。現在でも掘っ建て式を守っているのは伊勢神宮の社殿群や鳥居くらいのものでしょう。

発掘跡から予想される建物はこのようであるようです。

どことなく伊勢神宮に似ています。

 

そしてこれが、ケヤキの2000年前の柱なのですが、恐ろしく大きいです。樹齢110年、直径は80センチもあるそうです。↑の建物とは別のところから出てきたそうです。ガラスケースに入っていて光の反射で上手く写真に収まりません。

当然といえば当然ですが、表面はかなり風化していて、刃物の跡が残っていないかなぁと眺めていましたが何も見当たりませんでした。

機械も無ければ今のような便利な工具も無い時代に、堅くて重いケヤキの木の直径が80cmもあるようなものを切り倒すだけでも大変なことなのに、それをさらに運搬して、加工して、建築物として組み上げるというのは想像を絶する重労働です。今の重機やトラック、電動工具などを全て使ったとしても大変な一大事業になりそうです。ともすれば、昔は便利な道具が無いから、それなりの物しか出来なかったのではと思いがちなのですが、そのような想像と道具の限界を遥かに超えるものを生み出す力が弥生の人々にはあったようです。

展示室を出と唐古・鍵遺跡のシンボル、楼閣が見えてきます。

謎のクルクルが付いています。田原本町のホームページによりますと、1994年に復元。高さ12.5m。丸柱はヒバで直径 50cm。

寄ってみると……

全てがチョウナのハツリ仕上げになっています。

 

遺跡から少し離れた所に「唐古・鍵考古学ミュージアム」があります。ここに遺跡から発掘されたものが展示されています。

翡翠の勾玉

土器〜

そして、木製品なのですが、先ほど遺跡でケヤキが使われている事に驚きましたが、ここでも驚くことばかりです。

農機具はケヤキよりさらに堅いカシの木が主に使われているそうです。そしてそれがまた実に繊細に加工されている。農機具だからハードな使用に耐えないといけないから丈夫でないといけないのは当然だけれども、丈夫一辺倒ではないある種の優雅さも感じられる。

発掘されたチョウナも展示してありました!しかもこれ、石器なんですね。弥生時代はてっきり鉄製だと思っていたのですが。と、いうことはあのケヤキの大きな柱も石斧で倒して加工したということか〜。使った事無いからわからないけど石器ってそんなにキレるんでしょうか?

チョウナの柄はこの頃はまだ、曲がった柄ではなくL字型ですね。柄の奥にあるミニチュアが、なんだか僕に……

どうも、僕です。ヤバい、自分で言うのも何だけどこれは似過ぎ〜。

こんなところでご先祖さまを発見してしまった。それだからというわけでもないですが、弥生文化に自分のルーツを発見したような気になりました。この2000年前の時代から、ここに来る前に見た民家の時代まではおよそ1700年あまり。石器が鉄器に変わったりという変遷はあっても人間の営みって、そんなに変わらないんだなぁと感慨深いものがありました。その民家以後の時代の移り変わりが激しすぎて断絶感があり、現代から見ると弥生時代が遠い昔に思えてしまいます。江戸時代くらいを軸にして見れば、弥生時代も人の営みとしてそのまま繋がる感じがします。この視点を得られたのが今回の一番の収穫でありました。弥生時代をもう少し勉強してみたいと思います。

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