この前、修学院離宮に行った時にちょっと気になったこと。
この門のあたり。この辺りは江戸時代からあったわけではなく明治期に整備されたもの、という宮内庁の方の説明でした。明らかに、江戸時代から引き継がれた御殿の建物群とは違う雰囲気。
近寄ると……
絶対チョウナではやっていない。
ムムムっ。明らかにハツってなくて、カンナかノミで横から削ってハツリ風の模様を付けてある。しかもハツった場合には有り得ないほどに整えてある。どうしてこういうことをするのか、さっぱりわからないのだけれど、明治期になると、ハツリが単なるデザインと捉えられて、もともとあった野性味を剥ぎ取られて薄〜く、浅〜く表現されるようになったのだろうか。それにしても、ちっとも面白くない意味不明な表現である。ただただ気持ち悪い。機械の無い時代には、こういう整った意匠もそれなりの面白みがあったのかもしれないけれど、今の目でみたら、こんなものをわざわざ手加工でシコシコ作るならオートメーションの機械で加工した方がよっぽど綺麗で早くて正確ではないか、と思える。これを手加工でやるべきだ、という人は、人間が手を下すべきところを履き違えている。そうだっ、手作業でやってても、変に整えたものを作っていたら、そういう仕事は機械に取られてしまう。人がやる意味が無い。
扉の下の方を見ると……
これも明治時代ならそれなりの面白さがあったのかもだけれど、なんかイマイチ。カンナで削って模様を付けただけのもので、ハツリ跡を模したとしたらハツリの干物にしか見えない、いやっ干物はまだ風味が増すので、ハツリの抜け殻か……。明治はこういう時代だったんだろうか。こんな表面的な表現に堕するくらいなら、普通に平らに削った木で良かったんでないの?という気がしてくる。これも見た目的には機械でやっても手作業でやってもどちらでも大差ないし、効率の面では機械に相当の分がある。ひと昔前の仕事であっても、今それを手仕事で再現する意味が無くなってしまっている。
と、考えてくると、例えば江戸時代の柱や梁などは、曲がってたり一軒の家の中でも大きさがバラバラで、それでもそれに合わせて仕事してちゃんと建ってる。それがいつの頃か、柱や梁は真四角になって寸法もぴったり整えるようになって、それを始めは個々の大工さんが作業場で削ってて、やがて同じ事なら効率がいいように工場でぴったり削るようになる。で、そこから先を個々の大工さんが加工していたけれど、それもどうせ似たようなことやってるなら工場でまとめてやっちゃえ、とプレカットが出てきて工場でまとめて加工するようになる、という具合に、整ったものを扱い、規格化・効率化を進めれば進めるほど、それは機械加工に馴染みがいいので、人は要らなくなる。機械が得意なものを人の手で一生懸命やったって機械に敵うわけがなく、そんな技術は必要とされなくなるに決まっているのだ。それを無理に手加工だ、手刻みだ、とやってみても機械加工に劣ったものを無駄に時間とコストをかけて作っているのに過ぎないんだ。そうして多くの手加工・手刻みが無駄に浪費されていく。そういう道ではなくて、人として必要とされるには、整わないもの、曲がったもの変なもの、ユラユラしたもの、あるいは機械加工に馴染まないほどに複雑かつ精妙な加工にしがみ付いてないといけないのだっ。うん、わかったような気がした。ハツっていると時々「機械のように正確ですね」と言う人がいる。全然わかってへんやん〜と思う。「機械のように正確な」ものが欲しければ素直に機械にやらせりゃいいわけで、人が出る幕なんか無いやんか、と。はつりにおいては、仮に「機械のように正確に」動作を制御したとしても、刃物を打ち込まれる木の方が、場所によって固さも木目の流れも違うんだから、結果は「機械のように正確に」はならない。
その結果生まれる、こういう、なんというか自然な「揺蕩い(たゆたい)」、これが人が手を下すことの意味だし、それがないと機械に取って代わられてしまうのだ。
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