建築というのはその人の人格やからね。その人の人格は、その人の家の前に立ったらだいたいわかりますわ。
「京の大工棟梁と七人の職人衆」笠井一子著・草思社
この言葉に初めて触れた時の衝撃を忘れることが出来ません。お恥ずかしい話ですが、それまで家といえば豪華かどうか、要するにお金が掛かっているかどうか、や、デザインがどうかとか、程度のごく表面的なことにしか目が向いていませんでした。しかし、人格を表している、となると、それは建主の人となり、精神性を表している、ということで、それは当時の自分には非常に新鮮な驚きでありました。ごくごく簡単に言えば、見栄っ張りな人はやっぱり「どやっ?」という家を建てるし、優しい人はどこか優しい感じの家を建てて住む、ということになるかなと。はじめは、非常に面白いな、と単純に思っていました。ですが、ある時期からこれはしかし非常に怖い事でもあるな、と思うようになりました。つまり、人が自分の影からは逃れようがないように、建てられた建物はその建主の人格をそこに投影し続けるわけですよ………いいところも悪いところも。服や靴なら衝動買いしてしまっても後で「これは自分には合わないな」と思えばメルカリで売っぱらってしまえばいいし、車でも「失敗したな」と思えば2、3年で乗り換えてしまうことが出来ます。しかし、家はそうはいきません。失敗したなと思っても、よっぽど余裕のある人でない限り、その後何十年もの間その失敗と付き合っていかなくてはいけない。ずっと「その時の自分」が近くにいるようなもので、逃げようがありません。一方、失敗したとしても言い訳するのはとても簡単のようにも思えます。例えば、「知り合いの設計士に頼んだら、こんなメチャクチャにされちゃった」というような人がいます。しかしこれは、 表面的に失敗の責任をその設計士に押し付けているに過ぎなくて、突き詰めれば、その程度の設計士しか知り合いにいない、という紛れも無い事実、そして結局その設計士を選んだのは自分、ということに疑いはないわけですから、やはり直接・間接的にその人の姿を表している、と言えます。あるいは「欠陥住宅をつかまされた」とハウスメーカーを訴える人までいます。その主張には一見正しいようなところもあるのですが、距離をおいて冷静に客観的に見てみれば「安さや会社のネームバリューに釣られてよく考えもせずに一生の買い物をしてしまう」という思慮の足りないその人の姿と、パタパタっと無思慮にインスタントに建てられる「欠陥住宅」はある意味とてもよく似ている、ともいえます。図らずも中身と外見が釣り合いが取れてしまっています。このように、どこまでもその人の人格・品格・人望・感性・経済力その他もろもろいろんな意味での「実力」に見合ったものしか出来てきません。メルヘンチックなフワフワした憧れに弱い人が、丘の上の住宅地に突如としてプロヴァンス風の家を建てるのも、これが理由なのだ。
この建築に現れる精神性、という視点で見てみると、いろいろと興味深い発見があります。例えば、たびたび指摘されるところですが、東京都庁には第二次大戦時のイタリアのファシズム建築に似たところが所々あるそうです。国家権力の誇示と独裁への熱狂の中に建てられたファシズム建築に通じるものがある建築……そこに心が通じる人にしか「入居」出来ないのであろうか………あの建物に代々君臨するお歴々の姿を見ていると、「なるほど」と言わざるを得ない…。建てる時にも建主のあり様を映し出す鏡であると同時に、建てられた後にどのような人々が集うことになるかにも影響を持ち続ける。ちなみに東京都庁舎は1500億円かけて建てられ、築15年以来ずっと絶賛雨漏り中。補修費用の見積もりは1000億円というポンコツ具合…。丹下健三がおかしなものを設計しよったばかりに終わりのない雨漏りに悩まされ続けてねばならないし、東京都民は常にファシストに支配され続けるのだ。
また、現代ではよく使われる、木目をプリントしたシートを貼り付けた建材や、綺麗な木を薄いシートにしてベニヤ板に貼り付けたような内装材は、表面的な綺麗さを良しとする薄っぺらい現代にぴったりですし、石やタイルを模して作られる外装材は「見た目さえよければ良し」という思考を完璧なまでに体現しています。こういったものが一体どのような人格を表しうるか、寒々しいものを感じざるを得ないのです。
昔の民家であれば健康的な骨太の構造材で組み上げられた住まいが、やがてヒョロヒョロの木のボルト締めで作られるようになり、しまいには糊で張り合わせた集成材で家が作られるようになっていったのも、時代や技術の変化というより現代人の人格が病んで劣化したのと表裏一体のものであろうかと思われます。
せめて、家を建てるにあたっては「自分の人格が問われている」という覚悟を持って臨むようにすればいいのではないでしょうか。ベニヤの張りものは何を表すのか?ゴミに等しい石膏ボードに貼られたビニールクロスは適切に自分を表現出来ているのか?そう問い続けることで、いろんな失敗を避けることが出来るのではないかと、そう思います。
そうだったんですか、
家を見れば。家じゃなくてもっと小さいものでも
人格が わかる、と。ついつい雑念入りになりそうですが、理解するのは難しそうです。
以前ラジオで、大変な靴好きの方が「その人の履いてる靴を見れば、どんな人かだいたい想像出来る」と言っていたのを覚えています。いろんな分野で、そういうことはあるのかもしれませんね。。。
とても深い。
令和の時代、ここまで考えて、家を建てる人はほぼいなくなってしまった。
昔の建物の復元工事現場をよく観察していると、その時代にあった大きな意思を感じることができる建物が多く見受けられる。
やはり日々勉強、学ぶ姿勢が自分や周りも一回りも二回りも成長させる。
私も原点である山にもう少し訪れるべきであるとこちらのブログで大きな気づきを与えて頂き、感謝です。